1月25日(金)17時00分よりホテルメトロポリタン長野(長野市)3階・浅間の間において、2019年長野県生協連賀詞交歓会が開催されました。長野県副知事、国会・県議会議員・秘書、友誼団体、報道各社、長野県虹の会(お取引先様)、会員生協の役職員を合わせ83名が和やかに交流を深め、大変有意義な賀詞交歓会となりました。 続きを読む
インディゴ気仙沼は、天然インド藍を使った染色サービスとオリジナル商品を制作販売する会社です。始まりは、2015年に代表の藤村さやかさんが子育てサークルの友人2人と「子連れで働ける職場を」と立ち上げた染色工房でした。「インディゴ(※)は気仙沼の海の青をイメージさせる。染色の作業なら乳飲み子をおんぶし、空いた手でできる。そう話し合ってスタートしたんです」。
しかし染色は全員未経験。先達に教えを請いながら、自分たちが作りたい染めを探す毎日。最初は徳島産の藍に人工的な触媒を加える“化学建て”を試みましたが、1年後にインド藍の“天然建て”に切り替えます。その間もストールやTシャツを染めて販売し、徐々に従業員に給料を出せるようになりました。
さらに「子どもに着せて安心な商品を作ろう。そのためには自分たちの目で確認した原材料を使いたい」と、日本で藍染めに主に使われるタデ藍の栽培にも取り組みます。しかし夏の短い気仙沼では思うように育たず、藤村さんたちは寒い地方でも育つインディゴ植物を探します。そうして、気仙沼の気候に適した作物として着目したのが、現在、フランスのトゥールーズ付近の狭い範囲のみで生産されているパステルでした。
藤村さんたちはさっそく種を取り寄せて植え、発芽、葉の収穫と一つずつ作業を進めながら、パステルが気仙沼の気候に合っていることを確かめました。「染めるなら気仙沼で育てた植物で染めたい」と考えての挑戦でした。
一方でパステル染めによる商品の販売先も確保しました。「いま、収益の大部分はインド藍の事業によるものですが、これをパステルの事業で成り立つようにしたいし、海外にも販路を開きたい」と意欲を見せます。
3人で始めた工房は現在、パステル栽培を担う農家を含め9人に増えました。「自分の事業だと思ったことはない。気仙沼のパステル染めを、ワインのように気仙沼の風土を体現した商品に育て、いずれは地場産業としてまちの皆さまにお渡ししていければ」。
震災発生から8年。「新しい建物が増え、まちに色彩が戻ってきた」と藤村さんは喜びます。インディゴ気仙沼が染める青や水色も気仙沼のまちを彩る色の一つ。その魅力が国内外に広まることを願って、インディゴ気仙沼の挑戦は続きます。
※インディゴ/鮮やかな藍色を作り出す染料
●株式会社インディゴ気仙沼 https://www.indigo-ksn.com/
亘理町は町面積の約半分が浸水し、8万人が避難しました。震災から数カ月後、引地恵さんは町内でコミュニティづくりのためのワークショップを始めました。
亘理町には着物の残り布でつくった巾着袋にお米などを入れて感謝を伝える返礼の文化があります。引地さんは、その巾着袋を地元の女性たちの手で再現し、着物リメイク雑貨として販売していこうと考えました。ワークショップに集まった地元の女性たちとともに和裁の先生の指導を受けながら、手作りの巾着袋を「商品」として送り出せるよう、腕を磨きました。
2015年、引地さんは大きな決断をします。着物リメイク雑貨の製造販売をコミュニティ活動から切り離し、新たにつくった(株)WATALISへ移したのです。販売したお金で材料を仕入れ、作り手に製作費を支払い、経費をまかなう―。そんな当たり前の「ビジネス」として事業を続けるためでした。
「コミュニティ活動と並行して取り組んでいたので、着物リメイク雑貨の製造販売も、震災後の一時的な仕事づくりと見られていました。商談に赴くと、“きちんと供給できるのか”“納期は守れるのか”と信用を得る難しさに直面しました。“震災から時間が経っているので、もう扱わない”と言われたこともありました」。
“素人に会社経営は無理だ”と危ぶむ声もありましたが、引地さんはビジネスコンペに応募して受賞したり、ウェブ上に販売サイトを開設したりするなど積極的に道を拓きました。作り手さんに縫製を仕事として続けるかどうかを確認し、一層クォリティの向上に努めました。
(株)WATALISの事業は地元の友人知人や震災後につながった人々の応援を受け、着実に歩みを進めてきました。従業員は現在、作り手を含めて12人。アクセサリーや小物雑貨など商品の種類も増えました。WATALISは亘理町のワタリとお守りの意味のTALISMAN(タリスマン)を組み合わせた造語です。「商品を手に取っていただくことで亘理町に関心を持っていただければ嬉しいですね」。
故郷で生まれ故郷を伝える地場産品は、地域経済の担い手になります。「長く続けることで地元に少しでもお金が入り、活気が生まれる。そういう道を目指していきたい」と引地さんは願っています。
※株式会社WATALIS http://watalis.co.jp/
多賀城市は、千年前の大津波が古文書(※)に記されている町です。貞観地震によるもので「千年に一度の大津波」という表現はここから来ています。東日本大震災では工業地帯や市街地を津波が襲いました。大きな製油所火災が起き、浸水域は町の3分の1に及びました。
「いま街を歩くと、本当に津波が来たの?と思うぐらい復興はした。でも小さなところに目を向けるとまだまだだと思う」。多賀城市でコミュニティカフェ「タガの柵」を運営する松村正子さんは、そう言います。
松村さんは震災後ふるさとの多賀城に戻り、母親が参加していたまちづくりの市民活動を手伝うなかで、地元の小さなお店や商品の作り手と知り合います。「震災で苦労して再建した話やこだわりを持ってモノを作っている話を聞き、その感動を地域住民や観光客にも届けたいと思ったんです」。
松村さんは地元の小さな店や作り手の思いが伝わる商品を販売できる場所をつくろうと考え、起業家育成の講座に通ってノウハウを身につけます。そうして2014年夏、JR陸前山王駅の目の前に「タガの柵」をオープンさせました。
「タガの柵」のユニークなところは、地元の店と連携した体験ツアーやイベントにも取り組んでいることです。商店街ツアー、味噌づくり体験、コーヒー教室などお店の人と交流しながら、多賀城の魅力を知る内容になっています。「復興の大きな歩みのもとでは目立たないが、震災を乗り越え、地道に歩んできた“小さな人々”にスポットを当てたい」という松村さんの願いが、そこには込められています。
震災を学ぶツアーも行なっています。「ツアーで回ったお店の人が自分たちでさえ震災を忘れることがあるのだから伝えていかなければ、と言っていた。時間が経ったから喋れるという人もいる。復興した街並みを見るだけでは伝わらない部分を伝えていくのも大切だと感じています」。
タガの柵には様々な人が集います。「多賀城で新しい活動をしたい、被災した地元に何か還元したいと考えている人たちを応援し、つなぐ場でありたい」。松村さんの考える多賀城の復興とは、そうした“小さな人々”が生き生きと活躍できる町になること。ふるさとへの思いをタガの柵に託して、発信を続けています。
※『日本三大実録』 869(貞観11)年、貞観地震による大津波が陸奥の国府多賀城まで押し寄せ、千人が死亡したと記されている。
タガの柵 http://taganoki.wixsite.com/home
2018年12月6日(木)13時30分より、長野県JAビル4階B会議室(長野市)にて、協同組合連絡会第1回幹事会が9団体13名の参加で開催されました。 続きを読む