長野県内の生協のさまざまな活動・事業を紹介します。

活動報告

被災地支援活動

3.11を忘れない  みやぎ生協から被災地・宮城のいまをお伝えします 

画像1:みどり工房ショパンチ

第50回2017年10月5日

障がい者の就労を支援する場を再建するために

 

震災は、障がい者が通う事業所にも大きな傷跡を残しました。

みやぎセルプ協働受注センターは、就労支援事業所で働く障がい者の工賃向上を目的に様々な支援活動を行なう団体です。同センターの武井博道さんは「沿岸部にある障がい者就労支援事業所は、働いていた施設が津波で流されたり、建物は無事でも取引先が被災したために受託していた作業を失うなど、それぞれに厳しい現実に直面した」と当時をふり返ります。

事業を継続できなければ、月平均約1万9千円の1人当たり工賃(※1)さえ確保が難しいだけでなく、利用者が励みとしている社会参加の機会も奪ってしまいます。同センターは、被災事業所と被災地を支援したい企業をつないで新しい販路づくりを支援するとともに、販売イベントなどを通して各事業所の再建に奔走しました。

NPO法人みどり会みどり工房若林は、仙台市の荒浜にあった施設と農地を津波で流失しました。3カ月後、街なかのビルに移転しましたが、荒浜にいた頃のような農作業はできなくなりました。

「利用者さんは、商品の製作を通して自分も社会に貢献できているという思いが強いので、作業が無いのは本人も辛い。すぐに作業をつくらなければと思い、以前からやっていた手芸を始めました」と工房管理者の今野真理子さん。それぞれの障がい特性や心身のコンディションに合わせた作業プログラムを組み立てて、ピアノモチーフの雑貨シリーズ「ショパンチ」に特化した商品づくりを進めました。

ことし4月には、より利用者のためになるようにと就労継続支援B型事業所(※2)に移行。「今、困っているのは作業スペースが狭いこと。心が落ち着く場所の確保などは利用者さんの病状と直結する課題であり、次の展開を模索しているのですが、現状はうまくいきません」と話します。

他にも資金難などで施設を再建できず、今も仮の建物を拠点にしている事業所が数カ所あり、復興とはほど遠い実態が垣間見えます。利用者が働きやすく、より高い工賃を得られる環境をつくるために、関係者の努力はこれからも続きます。

※1 宮城県内の就労継続支援B型事業所で働く障がい者の平均工賃(2015年度)。

※2 雇用契約を結ばずに就労の機会を提供し、一般就労に向けて知識と能力の向上に必要な訓練などを行なう事業所。


3.11を忘れない  みやぎ生協から被災地・宮城のいまをお伝えします

画像1:Rera村島さん

第49回2017年9月5日

生き辛さを抱える移動困難者たち

 

高齢や障がい、病気などで歩行が難しく、“自力では行きたいところに行けない”人たちを移動困難者と言います。

どの地域にもいる移動困難者が、いちどきにたくさん、極限の状態で出現したのが6年前の震災でした。

以前から移動に困難を抱えていた人は震災でより状況が悪化しました。震災前は車で移動していた人も、車を流失して免許を返納したり、家族と生活を分けたために送迎してもらえなくなったりして、通院や買い物が難しくなりました。

また避難生活が長期化するなかで心身が弱り、外出の機会が減るなどの条件が重なって介護度があがるという悪循環も生まれました。

「移動支援Rera(レラ)」は、石巻エリアの移動困難者を対象に送迎支援を行なっているNPO法人です。利用者は1日平均延べ70人、年間で約2万人。約9割が通院目的で、利用者からは「レラさんのおかげで病院に行ける事がありがたい」「レラがないと寝たきりになると思う」などの声が寄せられています。

Rera代表の村島弘子さんは「自立生活を何とか維持できていて、これからも維持したいから移動を手伝ってほしいという方が多い。外出を止めれば介護度があがるのに、その外出に対する支援が空白になっている」と話します。障がい認定を受けている場合など行政からタクシー券の支給はありますが利用額は決して十分とは言えません。「“親の通院にかかるタクシー代を払いきれない。自分が送迎するため離職したら収入が断たれる”。そんな切羽詰まった相談もあります」。

Reraが活動を始めて6年5カ月。「仮設住宅が解消されたら活動に区切りをつけようと考えたこともあるのですが、いま止めると“生きていくのが大変な人たち”がますます困窮すると思い、続ける決意をしました」。

被災地ではいま新しいまちづくりが進んでいますが、移動困難者の存在は復興の陰に隠れて見逃されがちです。移動困難者の生き辛さに気付き、“公助”はもとより、地域での“共助”をどうつくっていくかが問われています。


3.11を忘れない  みやぎ生協から被災地・宮城のいまをお伝えします

画像:うみねこの皆さん

第48回2017年8月5日

楽しいことを自分たちでつくり出す-コミュニティスペースうみねこ

 

女川駅から車で約15分、海を望む高白浜の集落に、一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」が運営するカフェと農園があります。震災で人口は減少しましたが、イチジク栽培など地元には無かった事業に挑む「うみねこ」に魅力を見出した人たちが、町内外から働きに来ています。

始まりは、高白浜に住む八木純子さん(うみねこ代表)が、被災した高齢者の心を癒すため集落の女性たちと一緒に布草履を作ったことでした。さらに漁業を辞めた男性たちが農業で生きがいを取り戻せるようにと果樹栽培を始め、ボランティアや住民が集う「果樹園Cafeゆめハウス」で地場の食材を使ったランチを提供するようになりました。活動を続けるうち、うみねこの夢に共感して働きに来る若い世代が増え、イチジクを使ったお茶やスイーツ、唐辛子粉の製造販売など事業の幅も広がりました。

「女性の働く場所や若い人たちがやりたいと思う事業をつくり出していくことが大事だと思っている」と八木さん。そのため「今はスタッフの夢を叶えることに全力投球している」と言います。

常に活動のずっと先を見ている八木さんですが、心無い言葉を耳にした時など、何かの拍子に一瞬で6年前の3月11日に引き戻されることがあります。「あの時の様子がパッと甦り、やはりトラウマになって抜け出せないんだと再認識させられる。みんなの笑顔を見たくて続けている活動だけど、毎日葛藤のなかを生きている」と胸の底にある思いを口にします。「被災者はあの時の光景を見ている。ようやく生きて海から上がってきた人も、そこで息絶えてしまった人も見ている。だからこそ“復興”以上の楽しさを提供していきたいと思っているんです」。

事業はそのための手段と八木さんは言います。「ワクワクしたり、やって良かったと喜び合ったり、自分たちだからここまで頑張れるとか、一生懸命作るから喜んでもらえるとか、そういうやりがいを大事にしたい」。

辛いこと以上に楽しいことが多かったと言える日を、自分たちでつくり出していこう。うみねこの活動にはそんな気概があふれています。

 

◎一般社団法人「コミュニティスペースうみねこ」 https://www.onagawa-umineko.com/


3.11を忘れない  みやぎ生協から被災地・宮城のいまをお伝えします

画像:おらほの家サロン

第47回2017年7月5日

牡鹿半島で温かい交流をつくる-おらほの家プロジェクト

牡鹿半島はほぼ全域が山地で、漁港や集落の多くはリアス式海岸の入り江にあります。

震災は半島で暮らす人たちの生活を一変させました。人口は約4,300人から約2,500人に減少(※)。「過疎化が一気に進んだ」と、牡鹿半島でお茶っこや食事会の送迎サービス付きサロン活動を実施している「おらほの家プロジェクト」代表管理人の本庄年さんは言います。

長い避難生活のなか、若い世代は街に移住し高齢者は故郷に戻る形で世帯分離が進みました。集落も、家が残ってそのまま住み続けている人と家を失って高台に移転する人に分かれました。さらに世帯減少と独居高齢者の増加で、住民の交流が以前より少なくなりました。復興は進んでいますが、坂道が多く、バスも不便で、隣りの集落に行くにも通院にも、車を運転できる人の助けが要ります。

サロンの日、本庄さんたちは参加者のいる集落を送迎車で回り、清水田浜の「おらほの家」に案内します。お茶っこではお喋りや手芸に興じ、食事会では調理・食事・片付けを全員で行ないます。「一人暮らしだからみんなとお喋りできるのが嬉しい」「この辺りは気晴らしに出かける所が少ないのでサロンが楽しみ」と、参加者は満足して帰っていきます。

本庄さんたちはいま、ボランティアの減少や高台移転による集落再編に対応し、少人数スタッフでの運営、集落ごとの小規模お茶っこなど、サロン活動の見直しを図っています。

課題はやはり人手と送迎です。「高齢者の体調を見ながらの活動でもあるので、もう少しボランティアの手を借りたい。集落ごとのお茶っこは地域住民の手で行なうのが理想ですが、送迎がないと参加者が限られる。そのフォローも考えていかなければなりません」。

地元に温かい交流が残っているから、住み続ける、移住しても時おり帰ってくるという人は少なくありません。おらほの家プロジェクトのように、人と人の温かい交流をつくる取り組みが、これからも望まれています。

●「おらほの家プロジェクト」 https://oraho-oshika.jimdo.com/

 

※「平成27年国勢調査による石巻市の人口・世帯数」(石巻市)


地域に、人が集まり、仲間が助け合える場をつくる-戸倉漁師の会

戸倉漁師の会

宮城県沿岸の漁港142ヶ所はすべて震災で甚大な被害を受けました。とくに漁港と集落が一体となった地域は生業だけでなく暮らしの基盤も失い、住民離散による故郷消滅の危機にも見舞われました。
南三陸町戸倉は、リアス式海岸沿いに水戸辺、波伝谷などの集落と中小の漁港が点在する地区です。震災で漁港も養殖設備も壊れ、多くの漁業者が船と家屋を失いました。
その戸倉地区に2年前、新鮮な海の幸や山の幸を提供する「感謝祭」の開催とオリジナルの商品づくりに取り組む漁業者のグループが誕生しました。「戸倉漁師の会」です。
会長の松岡孝一さんは「震災を経て戸倉の漁師たちの結束はより強くなった」と言います。戸倉には、同じ町内の志津川や歌津のように人が集まる商店街も復興市もありませんでした。そこで全国から寄せられた支援への感謝を込めて、月1回、第2日曜日に波伝谷漁港で“海あり、山あり、美味いもんあり”の「戸倉漁師の会 感謝祭」を行なうことにしたのです。感謝祭は今年の5月で15回を数えます。毎回、石巻や仙台からの観光客はもちろん、他の町へ移住した人たちも戻ってきて、故郷の賑わいを体験していきます。
また漁業の6次産業化を目指し、カキを酒粕で漬けた「ほろ酔い牡蠣」やヒジキのシバ漬けなど新たな商品開発にも挑んでいます。
震災から6年、高台への集団移転が終わり、港湾施設の復旧も進みました。一方、ホヤが輸出できずカキも思ったほど価格が上がらない、後継者が不足しているなど、まだ苦労は続きます。
「漁師の会のメンバーは現在10数名。戸倉には100人前後の漁業者がいる。イベント会場などの課題はあるが仲間を増やしていきたい」と松岡さん。「海に出られなくなった年配の漁師を、仲間の若い漁師が手伝うことができる」と期待します。村岡賢一さんも「楽しみながら仕事ができるような仲間づくり、地域づくりが大事」と話します。
「漁業も暮らしも、本当に大変なのはこれから」と松岡さんが言うように、被災地の復興はまさにこれからが正念場です。