長野県内の生協のさまざまな活動・事業を紹介します。

活動報告

被災地支援活動

―復興を担う女性たち― 「南三陸町の漁業者の思い、町の魅力を伝えたい」 たみこの海パック

画像:阿部民子さん

「津波を目の当たりにして、もう養殖はやれないと思った」と阿部民子さんは言います。しかし家業である漁業から離れるわけにはいきません。「だったら私は自分にできることで自分の居場所をつくろう」。そう考えて阿部さんは2012年10月、南三陸町の海産物詰合せを販売する「たみこの海パック」を立ち上げました。
「南三陸の海産物をお土産に買って帰りたい」というボランティアの声をヒントに、複数の水産加工場から商品を仕入れ、独自の詰合せセットを考案。ホームページ「たみこの海パック」を開設し、オンラインストアで通信販売を始めました。
さらに女性が短時間でもイキイキと働ける場所をつくりたいと願い、子育て中の女性を一人雇いました。女性は海藻類の袋詰めを、阿部さんは販売に奔走しました。「ボランティアさんに直接、買ってくださいとお願いし、近くの道の駅やスーパーに扱ってほしいと頼みに行きました」。
販路が広がるにつれて売上も増え、翌年秋には黒字を計上できるようになりました。「震災をきっかけに事業を始めた私の生き方を理解し、応援してくれている人たちがたみこの海パックを育ててくれました。人に恵まれたと思います」。
阿部さんには「たみこの海パック」を通じて南三陸町の漁業者の取り組みや町の魅力を伝えていきたいという思いがあります。
そのため商品に浜の様子や復興の歩みを伝える「たみこの四季だより」を同封したり、ワークショップで来町した人たちに南三陸町の漁業の特徴などを描いた紙芝居を披露したりしています。
「震災直後、漁業者は収入減を覚悟の上でカキの養殖いかだを3分の1以下に減らし、環境に配慮した養殖に切り替えました。みんな不安と葛藤のなかでスタートしたのです」。おかげで日本で初めて国際認証ASC(※)を取得できたこと、栄養が行き届いてより美味しいカキが獲れるようになったこと、海藻は漁業権を持った、主に女性たちが岩場を歩いて採っていることなどなど。
「売りたい伝えたい相手は県外・関東の人たち」と阿部さんは言います。それは大きな消費地に住む人たちにこそ生産地である南三陸町の海産物を味わってほしいから、町に足を運んでほしいからだと。
「課題は“伝えること”ですね。インスタやフェイスブックなどSNSを使って発信を続けていきます」と笑顔を見せます。

※ASC認証/養殖水産物に対するエコラベル。環境に負担をかけず地域社会に配慮して操業している養殖業に対する国際的な認証制度。

たみこの海パック https://www.tamipack.jp/


―復興を担う女性たち― 「女川スペインタイルを地域の産業・文化として根付かせたい」 NPO法人みなとまちセラミカ工房

画像:阿部鳴美さん

女川スペインタイルは、震災後に誕生した女川独自の工芸品です。きっかけは、町の復興を考える人たちの中から出た「スペインタイルを女川の新しいお土産にしよう」というアイディアでした。協力を求められたのが、震災前、女川で陶芸教室をやっていた阿部鳴美さんです。阿部さんは東京の教室へ通ってタイルづくりを学びました。スペインにも足を運び、何十年経っても色あせないタイルに魅了されました。
2013年6月、阿部さんは陶芸の仲間とともに工房をオープンします。事業化の不安はありましたが、仲間や地元の人たちの声が励みになりました。
「当時はがれきが片付いた直後で辺り一面真っ茶色でした。彩り豊かなタイルに“被災地でこんな綺麗な色を見られるなんて!”と感動したり、女川ならではの大漁旗や獅子舞の絵付けをしたタイルを“懐かしいねー”“元気が出る”と喜ぶ地元の方がいたりして、勇気づけられました」。
阿部さんたちはクォリティの高いタイルづくりに打ち込む一方、2014年から、お客さまの要望に応えて「メモリアル体験」を始めました。絵付けワークショップで2枚のタイルを作り、1枚は自分用、もう1枚は町に残していくプロジェクトです。お客さまが町に残したタイルは、商業施設の壁面や階段などのスペースに貼られ、いつでも見られるようになっています。「自分の作ったタイルが町に残っていれば、女川にまた行ってみようと思っていただけるかも知れない。全国の人と女川をつなぐ、今と未来をつなぐ役割をタイルが果たしてくれればいいなと思っています」。
女川駅前の商店街シーパルピアにある店舗には、お土産品として人気のコースターやアロマタイル、受注制作の表札・メモリアルプレートなどのタイルが陳列されています。町にはお洒落なタイルの看板を掲げた商店があります。再建した家にもタイルの表札が使われています。タイルの壁画が飾られた災害公営住宅もあります。復興でどんどん生まれ変わっていく町と歩みをともにして、タイルも増えてきたのです。
「事業を長く継続し、女川スペインタイルを女川の産業として、地域の文化として、根付かせていきたい」と阿部さんは夢を語ります。スペインのように何百年も伝統の産業・文化として息づくタイルづくりを目指し、阿部さんたちは今その芽を大切に育てています。

※NPO法人みなとまちセラミカ工房 https://www.ceramika-onagawa.com/


「希少なパステル染めを、気仙沼の人の手で育てていきたい」 株式会社インディゴ気仙沼

画像:インディゴ気仙沼藤村さん

インディゴ気仙沼は、天然インド藍を使った染色サービスとオリジナル商品を制作販売する会社です。始まりは、2015年に代表の藤村さやかさんが子育てサークルの友人2人と「子連れで働ける職場を」と立ち上げた染色工房でした。「インディゴ(※)は気仙沼の海の青をイメージさせる。染色の作業なら乳飲み子をおんぶし、空いた手でできる。そう話し合ってスタートしたんです」。
しかし染色は全員未経験。先達に教えを請いながら、自分たちが作りたい染めを探す毎日。最初は徳島産の藍に人工的な触媒を加える“化学建て”を試みましたが、1年後にインド藍の“天然建て”に切り替えます。その間もストールやTシャツを染めて販売し、徐々に従業員に給料を出せるようになりました。
さらに「子どもに着せて安心な商品を作ろう。そのためには自分たちの目で確認した原材料を使いたい」と、日本で藍染めに主に使われるタデ藍の栽培にも取り組みます。しかし夏の短い気仙沼では思うように育たず、藤村さんたちは寒い地方でも育つインディゴ植物を探します。そうして、気仙沼の気候に適した作物として着目したのが、現在、フランスのトゥールーズ付近の狭い範囲のみで生産されているパステルでした。
藤村さんたちはさっそく種を取り寄せて植え、発芽、葉の収穫と一つずつ作業を進めながら、パステルが気仙沼の気候に合っていることを確かめました。「染めるなら気仙沼で育てた植物で染めたい」と考えての挑戦でした。
一方でパステル染めによる商品の販売先も確保しました。「いま、収益の大部分はインド藍の事業によるものですが、これをパステルの事業で成り立つようにしたいし、海外にも販路を開きたい」と意欲を見せます。
3人で始めた工房は現在、パステル栽培を担う農家を含め9人に増えました。「自分の事業だと思ったことはない。気仙沼のパステル染めを、ワインのように気仙沼の風土を体現した商品に育て、いずれは地場産業としてまちの皆さまにお渡ししていければ」。
震災発生から8年。「新しい建物が増え、まちに色彩が戻ってきた」と藤村さんは喜びます。インディゴ気仙沼が染める青や水色も気仙沼のまちを彩る色の一つ。その魅力が国内外に広まることを願って、インディゴ気仙沼の挑戦は続きます。

※インディゴ/鮮やかな藍色を作り出す染料

●株式会社インディゴ気仙沼 https://www.indigo-ksn.com/


―復興を担う女性たち― 「亘理町の文化から生まれた手作り雑貨。ビジネスとして長く続けていきたい」 株式会社 WATALIS

画像:ワタリス引地さん

亘理町は町面積の約半分が浸水し、8万人が避難しました。震災から数カ月後、引地恵さんは町内でコミュニティづくりのためのワークショップを始めました。
亘理町には着物の残り布でつくった巾着袋にお米などを入れて感謝を伝える返礼の文化があります。引地さんは、その巾着袋を地元の女性たちの手で再現し、着物リメイク雑貨として販売していこうと考えました。ワークショップに集まった地元の女性たちとともに和裁の先生の指導を受けながら、手作りの巾着袋を「商品」として送り出せるよう、腕を磨きました。
2015年、引地さんは大きな決断をします。着物リメイク雑貨の製造販売をコミュニティ活動から切り離し、新たにつくった(株)WATALISへ移したのです。販売したお金で材料を仕入れ、作り手に製作費を支払い、経費をまかなう―。そんな当たり前の「ビジネス」として事業を続けるためでした。
「コミュニティ活動と並行して取り組んでいたので、着物リメイク雑貨の製造販売も、震災後の一時的な仕事づくりと見られていました。商談に赴くと、“きちんと供給できるのか”“納期は守れるのか”と信用を得る難しさに直面しました。“震災から時間が経っているので、もう扱わない”と言われたこともありました」。
“素人に会社経営は無理だ”と危ぶむ声もありましたが、引地さんはビジネスコンペに応募して受賞したり、ウェブ上に販売サイトを開設したりするなど積極的に道を拓きました。作り手さんに縫製を仕事として続けるかどうかを確認し、一層クォリティの向上に努めました。
(株)WATALISの事業は地元の友人知人や震災後につながった人々の応援を受け、着実に歩みを進めてきました。従業員は現在、作り手を含めて12人。アクセサリーや小物雑貨など商品の種類も増えました。WATALISは亘理町のワタリとお守りの意味のTALISMAN(タリスマン)を組み合わせた造語です。「商品を手に取っていただくことで亘理町に関心を持っていただければ嬉しいですね」。
故郷で生まれ故郷を伝える地場産品は、地域経済の担い手になります。「長く続けることで地元に少しでもお金が入り、活気が生まれる。そういう道を目指していきたい」と引地さんは願っています。

※株式会社WATALIS http://watalis.co.jp/


―復興を担う女性たち― 「小さな人々にスポットを当てたい」 タガの柵(き)

画像:タガの柵

多賀城市は、千年前の大津波が古文書(※)に記されている町です。貞観地震によるもので「千年に一度の大津波」という表現はここから来ています。東日本大震災では工業地帯や市街地を津波が襲いました。大きな製油所火災が起き、浸水域は町の3分の1に及びました。
「いま街を歩くと、本当に津波が来たの?と思うぐらい復興はした。でも小さなところに目を向けるとまだまだだと思う」。多賀城市でコミュニティカフェ「タガの柵」を運営する松村正子さんは、そう言います。
松村さんは震災後ふるさとの多賀城に戻り、母親が参加していたまちづくりの市民活動を手伝うなかで、地元の小さなお店や商品の作り手と知り合います。「震災で苦労して再建した話やこだわりを持ってモノを作っている話を聞き、その感動を地域住民や観光客にも届けたいと思ったんです」。
松村さんは地元の小さな店や作り手の思いが伝わる商品を販売できる場所をつくろうと考え、起業家育成の講座に通ってノウハウを身につけます。そうして2014年夏、JR陸前山王駅の目の前に「タガの柵」をオープンさせました。
「タガの柵」のユニークなところは、地元の店と連携した体験ツアーやイベントにも取り組んでいることです。商店街ツアー、味噌づくり体験、コーヒー教室などお店の人と交流しながら、多賀城の魅力を知る内容になっています。「復興の大きな歩みのもとでは目立たないが、震災を乗り越え、地道に歩んできた“小さな人々”にスポットを当てたい」という松村さんの願いが、そこには込められています。
震災を学ぶツアーも行なっています。「ツアーで回ったお店の人が自分たちでさえ震災を忘れることがあるのだから伝えていかなければ、と言っていた。時間が経ったから喋れるという人もいる。復興した街並みを見るだけでは伝わらない部分を伝えていくのも大切だと感じています」。
タガの柵には様々な人が集います。「多賀城で新しい活動をしたい、被災した地元に何か還元したいと考えている人たちを応援し、つなぐ場でありたい」。松村さんの考える多賀城の復興とは、そうした“小さな人々”が生き生きと活躍できる町になること。ふるさとへの思いをタガの柵に託して、発信を続けています。

※『日本三大実録』 869(貞観11)年、貞観地震による大津波が陸奥の国府多賀城まで押し寄せ、千人が死亡したと記されている。

タガの柵 http://taganoki.wixsite.com/home